学問のすすめと個人について
国民一人一人の精神が独立心を保つことそれ自体が、その国の真の独立へと繋がることの全ての契機と、福沢諭吉さんは、それを「一身独立し、一国独立す」と表現しました。
我が日本国中も今より学問に志し気力たしかにして、まず一身の独立をはかり、したがって一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐れるるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して、一国独立することはこのことなり。(「学問のすすめ」より)
国民の一人ひとりが自立し、賢くなることが国家の近代化と繁栄をもたらすものと考えたのようです。それには早く西洋文明を学び、個人の自立のためには何よりも教育が不可欠だといったのです。
では、その学問の目的はなんだったのか。
それは、ひとりの人間として独立心と自尊心を築き、どのような立場の人間になろうと、おのれの信念を通す人間となることだったようです。
福沢諭吉さんは、学問を学ぶことによって、経済と精神の基盤を両立させ、他人に依存することのない独立心を養い、そのことによって人間ははじめて人間的な生き方、ひいては社会の発展に寄与する生き方ができると考えたようです。
その骨子となっているのが有名な「独立自尊」という精神である。その中味は「自分で自分の身を支配し、他によりすがる心無きこと」。つまり近代人になるためには、まず自分で考え、自分で行動し、他人に頼らない精神を持つことが必要だと説いたのである。
また福澤諭吉さんは「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と平等主義を謳いました。そして、上で述べましたが学問も大事と説いた。つまり身分に関係なく学問を修めたものが上に立って国や社会を引っ張っていくということを説いた。
これを言い換えると、身分ではなく学問によって優劣をつけるということなので、義務教育のもとで全国民を巻き込んでの学問での競争がここから始まったともとれる。
チームプレーのスポーツでも、チーム力という場合があるが、個人のレベルが高くないと、チーム力は発揮されないのではないでしょうか。落合さんも、野球は個人プレーだと昔言っていたのを思い出す。
そして、現在、大前研一さんが言うところの、道州制にも通じる考え方ではないだろうか。個人が独立し、地域が国から独立する。そして、その独立した、個人、地域が前面に押し出されれているのが現在かもしれない。そして、これからも、個人の力が重要になっていくといわれている。