「社会調査」のウソを読んでについて

人間の記憶に関しては、いくつもの面白い調査がなされている。もともと存在しない出来事ですら本人の記憶の中に生まれ、形成されていくこと、ジョン・コートルの著書「記憶はウソをつく」(講談社)の中に、数多くの例とともに紹介されている。(他にサイエンス1997年5月1日号のR・バックホートの記事もお勧め)。社会調査を行うものは、まずもって人間のあやふやな記憶を相手にしていることを前提にし、計画をスタートしなければならないということである。記憶が不確かなだけではない。その上、人はウソまでつく。他人に知られたら本人に重大な影響を与えるような質問の場合は、「人はウソをつく」ことを前提にして調査する必要があるのである。1年前のことであれば、中には本当に忘れたり、勘違いする人もいるかもしれない。しかし1998年に行われた参院選挙の数日後に読売新聞が行った調査を見ると、記憶の問題ではなく、明らかにウソをついていることがわかる。このアンケートの質問は、次のようなものであった。「この前の日曜日に行われた参議院選挙で、あなたは、投票に行きましたか、いきませんでしたか。」(読売新聞1998年7月17日)実際に投票に行った人は58.84%であることはがはっきりしているにもかかわらず、この質問に対し「行った」と答えた人が84.8%もいたのである。こうなるともう、ただのウソと考えたほうがよい。ちなみに読売新聞は朝日新聞同様、きちんとしたサンプリングを行っており、回答者に関する偏向はそれほどないと考えられる。(「社会調査」のウソ  リサーチリテラシーのすすめ 谷岡一郎著)といっています。

私は、親の言うことなどを注意深く観察したことがる。つじつまの合わないことがけっこうあったし、言いたくないことは伏せている。そのことによって結果的に、嘘となってしまっていたことを何回か経験した。そのことより、人間は嘘をつくのがわかったし、こんなに家族、しかも親子でも嘘をつくんだ、ということがよく分かった。また、社会でも事実が積み上がり年数がたつと嘘になってしまうこともある。たとえば、医療の瀉血など、昔は効果があるといわれていたが、現在は否定的である。

しかし、最近は、ライフログする人や、ビデオ判定や、運転中もビデオを撮影するドライブレコーダーが普及している、電子機器の進展により正確な情報を得られるようになってきている。

私は、いいことではないか、と考えている。

自分の私生活も、監視されるのは嫌だという人もいるかもしれないが、人間社会で生きていたら、私生活もされけだすことも必要な時がありそうです。

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